ゴッホが有名なのはひまわりと耳のお陰ではない 無名の画家が有名になった理由

ゴッホは死後にどうやって有名になったのか?

Self-Portrait with Bandaged Ear

 

フィンセント・ファン・ゴッホは37歳という若さでこの世を去りました。

画家として作品制作に精を出していましたが、生前はその努力が実ることはありませんでした。

 

ではどうやって死後、世界的有名画家になったのか?

 

 

 

ゴッホの弟 テオの願い

実はゴッホがこの世を去る2年前くらいから、【アバンギャルド】(新しい芸術を興そうとする運動)の人々から徐々に認識され、パリやブリュッセルの展覧会で展示され始めていたそうです。(それでもほぼ無名だったはず)

 

ゴッホの死後、弟テオは何よりもゴッホの作品の知名度を高めることだけを望んでいて、そのために全てを尽くすつもりでした。

しかしながらゴッホの死からわずか半年で、テオもこの世から去ってしまいました。

 

それならば!とテオの妻だったヨハンナ・ボンゲル(以後ヨー)がテオの願いを叶えることを決意。

 

ヨハンナ・ボンゲル

 

ヨーはゴッホの作品を売り、いろんな展示会に貸し出したりと、精進しました。

 

ゴッホの存在を人々に知ってもらおうと活動する中で特に世間の注目を集めたのは、ゴッホがテオに宛てた手紙を出版したことでした。

ゴッホの興味をそそる人生のストーリーが、彼の作品を徐々に世界を一世風靡するきっかけとなったのです。

ゴッホは貧乏ながらもテオとは仲が良かったので、そんなゴッホに人間味を感じたり、身近な存在だと共感できる部分があったのかもしれません。

 

ヨーの献身的な支えがなければ、きっと未だにゴッホは無名の画家だったことでしょう。

 

ヨーが28歳のとき、まだ赤ちゃんだった息子と、テオの兄であったゴッホの部屋いっぱいの作品を残してテオは逝去。

 

テオが亡くなってからわずか数年で、ゴッホの作品は世界中に知られることになりました。

 

ゴッホはヨーに感謝してもしきれないですね!

 

ではどうしてヨーはそこまでして、ゴッホの作品を世に出すことに情熱を注げたのでしょうか?

 

 

 

何百点もの作品の相続

ヨーとテオが夫婦だったのは約2年ほど。

 

テオの死により、ヨーは突然自身と小さな息子を養わないといけない状態に。。

 

テオは美術商でゴッホに仕送りを続けた人物。

ゴーギャンとの共同生活中、ゴーギャンに対しても仕送りをしていたそう。

お金には困っていなかったのだと思われます。

 

ところが、そんな夫が突然亡くなってしまった。

 

多分、「自分たちを養うためにもゴッホの作品を世に広めよう」と思ったのではないのでしょうか。

 

テオが彼女に残した膨大な数のゴッホの作品。

一体どうしたらいいのか?

 

 

 

テオの願いを叶える

テオがゴッホの作品の知名度を高めることを常に考えていたのを知っていたヨーは、テオへの敬意としてその願いを叶えることを誓いました。

 

そこでヨーはパリからオランダのビュスムへと引越し、そこでゲストハウスを開業。

 

ビュスムは多くの作家や画家の故郷だったので、ヨーは彼らと知り合いになり、美術商の世界でゴッホの作品を広める方法など、多方面で手伝ってくれました。

 

 

 

ゴッホの作品を世に広める

ヨーは頭が良く、世間の人々がゴッホの作品を目にする機会を増やすために販売展を企画しました。

 

これが購入見込みのあるバイヤーの興味を引くのに役立ち、ヨーは多くの作品を戦略的に売りました。

ゴッホの作品が世界中へ散らばることになります。

 

結果、多くの人々がゴッホの作品を目にし始めました。

 

 

 

最大規模のゴッホ展覧会

1905年、ヨーはこれまでで一番の偉業を達成。

アムステルダム市立美術館にて、ゴッホの作品を扱った最大の回顧展を開きました。

 

ゴッホ展のポスター

 

480点以上の作品が飾られ、この展覧会以降ゴッホの作品の価格は急上昇。

(ゴッホは絵を仕上げるペースが非常に早く、画家として活動していた約10年間で、油絵・約900点、鉛筆画&スケッチ約1100点、など約2000点以上仕上げていました!)

 

この展覧会の準備でヨーは優れた管理能力を発揮。ヨーは展示される作品の選択から係員への支払いまで、全てを手配。

 

複数の要素から成り立ったゴッホの回顧展でしたので、「明るい色彩や表現的な筆使いが現代的すぎる」と指摘されたりもしましたが、もちろん高い評価もありました。

 

ゴッホの代表作「ゴッホの寝室」も展示されていました。

寝室

 

 

 

ゴッホの手紙

展覧会の一方で、ヨーは他の重要なプロジェクトにも着手。

ゴッホの弟テオに宛てたの手紙の出版です。

 

ヨーは膨大な数の手紙から選んで編集することで、彼女のゴッホへの距離が近づいただでなく、死去したヨーの夫テオにももっと近づくことが出来たと実感したのです

(ゴッホがテオに書いた手紙は現存するだけで663通!テオからゴッホへの手紙は39通しか残っていません。)

 

ゴッホとテオは仲が良く、頻繁に手紙のやり取りをしていたからです。

(今でいうLINEのように頻繁ですね、当時からしたら。)

 

ヨーは手紙を分類して編集し、ゴッホについての経歴紹介を書きました。

その後何年間も、ヨーが書いた紹介文はどこかでゴッホの本を出版する際に、何度も使用されました。

 

1914年、ゴッホの手紙を出版したことにより、ゴッホに対する評価は画家としてだけでなく、人間としても高まりました

 

手紙のおかげで人々は、ゴッホの夢や願望、苦悩を理解し、芸術に対するゴッホの見解も知ることが出来ました。

 

 

 

英語で手紙

ヨーは英語でゴッホの手紙を出版するために英語を勉強し、手紙の英文訳作業も務めました。

 

1925年にヨーが亡くなった時、膨大な数の手紙に対し2/3はすでに英訳されてあったらしいです。

 

ゴッホの手紙の英語版はその4年後に出版されました。

 

 

 

ゴッホの栄光のために払った犠牲

1891年から1925年の間にヨーは200点近くのゴッホ作品を売りました。

 

ですが1点だけ、ヨーも息子も手放せなかった作品があります。

それは「ひまわり」です。

(「ひまわり」は【黄色い家】のゴーギャンの部屋に飾るために描いたもの)

ひまわり

 

ヨーたちは5点あるうちの2点の「ひまわり」を所有していました。

ヨーはこの作品がとても好きで愛着がありました。

 

にもかかわらず、ゴッホの知名度を高めることを夢見ていたテオと、ゴッホの栄光のために、最終的に2点のうち1点を1924年にロンドンのナショナルギャラリーに売ることに。

ヨーは美術館の館長に、

It is a sacrifice for the sake of Vincent’s glory】(ゴッホの栄光のための犠牲です)

と手紙を添えました。

このロンドンの美術館に「ひまわり」を売ることでゴッホの知名度を高められるのなら、大好きな「ひまわり」の絵を生贄にします。という意味ですね。

 

 

 

ゴッホ 世界的有名に

「ひまわり」を犠牲にしたおかげで、ヨーは夫だったテオの「ゴッホの知名度を世界に高める」ことと、自分の願望であった「ゴッホの知名度を世界に高めたかったテオの願望を果たす」を晴れて叶えることが出来ました。

 

ヨーが1925年に亡くなった時、ゴッホの作品は世界的に有名で、世界中の美術館で展示されていました。

 

ゴッホの作品を世に出すために精を出していたヨーですが、同時に絶対に売りたくない作品もありました。

ヨーや家族にとって感情的な価値があったり、ヨーが個人的に気に入っていたり。

収穫」など。

収穫

 

そんなコレクションは売らずに家族のために残しました。

 

 

 

夢を続ける

ヨーが亡くなったあと、息子のフィンセントは家族がまだ所有していたゴッホの作品を財団に移転しました。

フィンセントもまた、ファン・ゴッホ美術館の創設者の一人です。

 

フィンセントの一番の願望は、全て人がゴッホの作品を永久に観覧可能にすること

 

こうしてフィンセントは両親の夢を実現するために働き続けました。

 

今日まで、一家のゴッホコレクションをファン・ゴッホ美術館で鑑賞することができます。

 

ヨーはこう言い残しています。

 

I am delighted that after years of indifference from the public towards Vincent and his work, to feel that the battle has been won.

Jo Van Gogh-Bonger

「長年にわたってゴッホと彼の作品に対し、一般の人々は無関心でしたが、私はついに長い戦いに勝った。と感じられて嬉しいわ。」

ヨハンナ・ボンゲル

 

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